天空の大城郭・岡城

天空の城・・・ラピュタ?
いやいや、これは「マチュ・ピチュ」(笑)
作られたのが15世紀というから~日本でいう「室町末期~戦国時代」!
マチュピチュは標高2400mにあるが、当時のインカ帝国の首都クスコは
さらに1000mも高い3400mにあって、高度な石積み技術を擁した文明だったそうな・・
スペインに侵略されたが~防御の城としての石垣というよりも?
住居等に使用されていた石積であったようである・・

なので・・日本における「天空の城」というはインカの遺跡とは若干違う(笑)
日本の「山城」とは~主に戦国期(インカ帝国同時期)に築かれた
国境などの小高い山頂に築かれた「砦」や「曲輪」のような防御拠点が多く
「支城」と呼ばれる山城が多数存在した。

戦国期も、全国の戦国大名の多くは生活拠点は館や御殿に住んでいたが
本城として高層の櫓をもつ天守閣も建つようになる(写真は岐阜城)
その本城と周辺の支城で、侵略してきた敵と戦う「支城ネットワーク」が
主流な時代だった・・。

私の訪れた国宝の犬山城も、山に築かれた周囲を見渡せる絶景だった^^;
天守閣には、大名の権威という意味のほかに、周辺の情報を見渡せる高所という存在理由もあると思う。

主要拠点の近世城郭は平山城が多いが・・
この姫路城もそうだが、本丸や天守閣は、やはり一段高い位置にあり
本来は山城にあった「天然の要害」の代わりに大きな水堀や土塁、高石垣等の
防御施設を施して生活も城下町なども平地で、暮らしやすい都市化が進んだ。
そんな中で、江戸時代の「一国一城令」や、明治維新の「廃城令」で
多くの支城は廃城・・( ;´Д`)
現在まで櫓や天守が残っているのは・・

備中(岡山)の備中松山城などしかなくなってしまった。

岡城もそうだが・・安土以降、江戸時代初期にかけて、ただの山城だった城に
江戸時代初期頃に移封してきた大名が石垣などを擁して
城主が住むこともある城郭へ改修されたケースも多い

これは、青葉山(131m)に築かれた、奥州の覇者の伊達政宗の居城「仙台城」
別名、青葉山城~というこの城も?

断崖絶壁の「天然の要害」に、清水寺と同じ「懸造(かけづくり)」を施した舞台があったので有名だが・・
どの山城も、本来は暮らすには適さない山の上にあるので・・( ;´Д`)

江戸時代以降には、藩政の中心となったその主要首都の本城は、
山麓に近い曲輪や城下町付近に生活のための御殿などを建て
天守(閣)のある本丸などは、有事(戦争時)の詰め城にしてるケースも多い(伊予松山城など)

戦国時代の豊後の大名は大友宗麟、竹田は西部(熊本)や南部(鹿児島)の守りの拠点でして・・

天神山(325m)の山頂にあり、両側を大野川の支流の稲葉川と白滝川が
合流する間の舌状台地上に築かれた典型的な「山城」で

このような曲輪で構成されていたようだ^^;
この城が歴史上で一番大きく注目されたのが、

宗麟が耳川の戦いに大敗して
衰退した大友家の隙を見て進行してきた島津の豊後攻略時に・・
泣く子も黙る猛将、「鬼島津」で知られる島津四兄弟の次男、島津義弘が率いる大軍を

迎え撃つ竹田の守りを任された大友家重臣の志賀家は、当時若干20歳の志賀親次が18歳で家督を相続していた。
父を始め、多くの家臣が島津に寝返る中、キリシタンに改宗していた、親次と城兵1000名のみが
果敢に戦って三度も撃退し、結果として島津の九州平定を拒む功績をあげることになった。

しかしながら・・主君の大友家は、宗麟の子の大友義統が文禄の役で改易となり、親次も浪人して
蜂須賀家や福島家、小早川や毛利と主君を変えていくことに・・
代わりに移封してきた中川秀成が・・

約3年がかりで高石垣や櫓群などを整備改修して、現在の石垣遺跡の基礎を築いた・・。
これだけの大規模な城郭なのは、豊後においての西の守りの拠点としてもあり
大友家改易の後、小藩に分けられた豊後国において最大の石高の領国だったからである。

今現在、岡城の登城料は300円・・そしてこの掛け軸風の城内案内を貰えるのだが^^;
この絵の城・・ただの想像図ではなく?

これが・・動かぬ証拠?(苦笑)
この古写真を集めた写真集の中に・・

ちゃんと・・・あります♪
どうですか~!この三層の天守を頂く櫓群に高石垣に囲まれた巨大城郭!
これが廃城令で失われなければ・・( ;∀;)
でもね・・姫路城や現存天守が維持保存に莫大な金が必要な事実もあるしねぇ(~_~;)
我が臼杵城も、天守台はあるのに‥天守の櫓はなし(大手門や畳櫓、卯寅口門脇櫓は現存や復元)
どういった復元が、費用対効果も含め
観光や地域活性化に役立つのか?難しい問題ですよね( ´Д`)=3

この岡城・・
なんと令和元年、某国営放送で放送された「日本最強の城」第三弾において~
「最強の城」として紹介されました!すごい!!
それで・・・城好きなどと言っておいて?(; ̄ー ̄A
地元のこの岡城を小学校以来、40年?行ったことがなく…(苦笑)
久しぶりに取材方々、行ってみる事にしました^^;

駐車場に停めると、発券場所で300円で巻物風案内を貰えます(お土産にいいですよ♪)

登城口までは川の横、切り立った崖を進むことになりますが~これは断崖絶壁!
まさに攻めるのに困難な高台なのがわかります

ほどなく登城口、石垣の大手門跡が見えてきます

そんな急ではありませんが~彦根城に似た坂を上っていくと

立派に積まれた石垣群が見えてきます

その大きさに驚かされる大手門の石垣・・
実は、この石垣・・・

これが当時の古写真なのですが・・?

これ!・・ただの白黒写真をカラー加工したんじゃなくて・・
平成11年の竹田市政50周年の記念事業をして20日のみ復元された門だって!?
なんで~!?そのまま残さなかったの~??って思うでしょ??
実は・・それだけに飽き足らず?

こんな‥ハッキリ写った天守櫓の白黒写真・・

これは、実際に白黒写真をカラー化したものなんですが・・
この天守閣を写した写真が撮られたのは‥昭和62年!?

これが当時発売されたお土産のテレカなんですが・・
そう!この竹田市・・・
過去に二度も!?
天守閣と大手門の復元をやっちゃった!?

この築城800年記念の時もそうですが・・
国の史跡に認定された石垣に木造でもなんでも簡単に復元はしちゃダメらしく( ;´Д`)
石垣の保護や強度の問題なんかで、とてもハードルが高い・・。
そこで?この二つのの復元も、木造ではあるが瓦を発砲スチロールや軽量のベニヤなどで
まるで映画のセットのような「外観だけそっくり復元」だったらしく・・(苦笑)
長期間は展示できなかったようですね(;´∀`)

しかし・・写真を見る限り?
かなり立派で・・やっぱ、石垣のみよりも~櫓があったほうがいいよねぇ(*´з`)

だいぶ脱線しましたが~
岡城のサムネイル写真によく使われる本丸石垣が見事で~
ただ驚くのが!?

これだけ切り立った断崖絶壁の上に高石垣を長距離施工してるのもですがw
この石垣・・転落防止の柵なんかが一切ない!(苦笑)
ちなみに臼杵城はこれほど高所でもないのにありますよ^^;

天守台は、熊本城の石垣を思わせる「武者返し」の扇の勾配!

本丸の天守台が最高に高い場所で‥(笑)
遠くに祖母、傾山系・・そして!?

くじゅう連山も見れるという・・360度絶景!
これに更に当時は3層の櫓・・その上から見る景色は最高だったろうなぁ~(*´з`)

景色がいいということは~風通しもいい(;一_一)
この高さに、風が吹かれると・・滑落しそうで怖かったですw

そして~岡城と言えば「荒城の月」
滝廉太郎は、竹田出身ではない(東京出身、父が官僚で転勤のため全国回った)けど
この岡城の荒廃ぶりを歌った荒城の月が・・唱歌になろうとは^^;

三方向に曲輪が伸びた岡城は、見どころは本丸もある二の丸、三の丸・・そして西の丸まで石垣で構成されていて
本丸の向かいまで伸びているので行ってみることに・・

西の丸には、家老の屋敷跡があり・・

延々と伸びる石垣群の景観や規模は、こちらのほうが感じやすいのでぜひこちらまで行ってみて欲しいです^^;
もちろんメインは高石垣から見下ろす絶壁と、360度絶景ビューですけどね^^;
さて・・ここまで書いて気になることが?

備中松山城でも思ったのですが・・
決して広くもなく、急な山道をどうやってあんな石垣を運搬し、建物を建てれたのか?
今なら四駆や重機、空輸もあったでしょうが~当時は人力のみのはず?
それに‥最も気になった事・・

実際に、岡山の山中でみた「天空の城」雲海や霧に囲まれた備中松山城や・・

まさに!天空の城ブームを作った但馬竹田城・・・
あんな雲海に浮かぶ「岡城」の写真…見たことなくね?(;´Д`)
探したら・・・

ありました・・・が?少々、いい感じじゃないねぇ・・
やはり、地形的問題?霧が溜まりにくい地形なのかな?川は近いけど・・
でも、雲海がなくてもその規模は、竹田城などの比じゃありませんのでw
動画版・・あげちゃいますがw
ぜひ一度、ご自分の目で見てもらえたらな~って思います^^;